“まさか”弁護士が痴漢のターゲットに…被害者となって痛感した「声を上げる難しさ」

弁護士JP編集部

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“まさか”弁護士が痴漢のターゲットに…被害者となって痛感した「声を上げる難しさ」
判決後、記者会見に臨む青木千恵子弁護士と代理人・山本有司弁護士(9月1日 霞が関/弁護士JP編集部)

電車内の痴漢をきっかけに「強制わいせつ致傷罪」で起訴された男に9月1日、東京地裁が懲役2年6カ月、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。これを受け、被害者・青木千恵子弁護士は「犯罪被害と刑事司法に関する様々な問題を考えるきっかけになれば」と、実名と顔を明かして記者会見に臨んだ。

「痴漢したでしょ」勇気の先に待っていた“死の恐怖”

2020年10月6日19時頃、青木弁護士は業務のために乗車していたJR埼京線内で、加害者の男から痴漢行為を受けた。このとき、青木弁護士は弁護士バッジをつけていたが、強い羞恥心や嫌悪感、恐怖感などが押し寄せ、声を上げることは容易ではなかったという。

電車が赤羽駅に到着した際、青木弁護士は勇気を出して「痴漢したでしょ」と声をかけ、男が逃げないようボディバッグの紐をつかんだ。すると男は逃走しようと、青木弁護士を引っ張る形で降車。男がホーム上でバッグの紐を振り回した際、青木弁護士は転倒した。男は青木弁護士を引きずったまま、下り階段付近まで移動したという。

このときの心情について、青木弁護士は「このまま階段から引きずり落とされて死んでしまうのではないかという強い恐怖を覚えました」と振り返る。

痴漢事件「9割が示談で解決」とも

事件をきっかけに、青木弁護士が失ったものは大きい。

「階段から落とされて死ぬかもしれない」と強い恐怖を味わったことから、階段を使うことはおろか、見ることすら怖くなった。また、事件のフラッシュバックによる不眠が続き、慢性的な頭痛や倦怠感に悩まされ、日常生活にも社会生活にも大きな支障が出ることになる。

その結果、事件前から続けていた司法試験予備校の講師業務ができなくなった。また弁護士業務においては、従来より犯罪被害者の支援案件を中心に受任していたが、それも中止せざるを得ない状況に追い込まれ、本来得られるはずだった収入は大幅に減少した。

「令和3年警察白書 統計資料」によると、令和2年に検挙された迷惑防止条例違反のうち、痴漢行為(電車内以外を含む)の件数は1915件、電車内における強制わいせつの認知件数は143件。被害者たちが深い傷を負い、事件前の生活を奪われていることは想像に難くない。青木弁護士のように、仕事を続けられなくなることも珍しくはないだろう。

ところが、痴漢事件の多くは、わずかな示談金で解決するケースも少なくない。正式な統計は存在しないものの、インターネットで「痴漢 示談率」と検索すれば、その成立率について「8割」「9割」とうたっているサイトもある。

実は、本件加害者の男は過去にも痴漢事件で逮捕されていた。青木弁護士が男の代理人から聞いた話では、前回は30万円の示談金で起訴猶予になったという。

「一般的に、迷惑防止条例違反の痴漢事件における示談金の相場は、20〜30万円と言われています。今回も相手方(加害者の男)は当初、30万円の示談金を提示してきました」(青木弁護士)

事件によって得られなくなった収入、ケガの治療費、心療内科の治療費、奪われた日常……。“相場”とされる示談金額は、果たして被害者が失ったものに見合っていると言えるのだろうか。

弁護士が被害に遭って痛感した「声を上げる難しさ」

従来より犯罪被害者の支援に取り組んできた青木弁護士だが、今回自身が被害者となったことで、改めて「声の上げづらさ」を痛感したという。以下は青木弁護士が、当事者として難しさや苦しさを感じた内容だ。

  • 痴漢行為をやめさせることや、周囲の人に助けを求めることが難しい
    「(男に触られて)お尻の左半分がむき出しになっている自分の姿を、他の誰にも気づかれたくないという強い羞恥心や、お尻の割れ目付近を触られていることへの、とてつもない嫌悪感、これ以上他の場所を触られるかもしれないという恐怖などが、一緒に押し寄せてきました」(青木弁護士)
  • 捜査のために、履いていた下着を提出しなければならない
    「事件当日、警察署で、履いていた下着をその場で脱いで提出するよう求められたことは、精神的にきつかったです。科学捜査をするために、事件直後の状態の物的証拠を収集しなければいけないことは理解しています。でも、被害に遭ったときの生々しい感触がまだ残っているときに、下着を脱いで他人に渡すということは、心も体も拒否したくなる行為で、手が震えて、なかなか下着が下ろせなかったのを克明に覚えています」(青木弁護士)
  • 「なぜ」と問われる残酷さ
    「なぜ何度も被害に遭うのか、なぜ早い時点で声を上げなかったのか、なぜ逃げなかったのか、なぜ電車を降りなかったのか。これらの質問は、刑事事件として構成要件該当性を認定するために、必要不可欠のものです。しかし、後悔や自己嫌悪に囚われ、誰よりも強く『なぜ』と自分を責めているのは、被害者自身なのです。そのような中で『なぜ』と問われることにより、被害者は大きな心の傷を負うのです」(青木弁護士)
  • 長期間の捜査による精神的ダメージ
    今回の事件は「強制わいせつ致傷」で送致され、検察官もこの罪名での起訴を予定し捜査が進んでいた。ところが担当検事が代わった途端、「東京都迷惑防止条例違反と傷害で略式起訴(※1)」と告げられ、青木弁護士と代理人・山本有司弁護士の強い抗議を経て、送致罪名の通り「強制わいせつ致傷」で起訴される、という紆余曲折をたどった。

    (※1)正式な裁判をせず、検察官の提出した書面で審査して100万円以下の罰金又は科料を科す手続き

    これにより捜査が長期化したことについて、青木弁護士は「本当は忘れてしまいたいのに、長期間にわたり、事件の細部まで覚えていなければならないという義務感をもって生活することを余儀なくされ、何度も精神的に不安定になりました。(中略)いつまでも事件の影響から逃れられず、こんな状態が永遠に続くのではないかと不安になるほどでした」と振り返る。

痴漢事件「2.7人に1人」が再犯

裁判において、最後に言いたいことを聞かれた男は、青木弁護士に対して涙ながらに「本当に申し訳ございませんでした」と頭を下げた。裁判を通して男の態度に変化が見られたことから、青木弁護士も「この人は二度と人を傷つける犯罪行為に手を染めることはないだろう」と感じたという。

しかし、痴漢事件の再犯率は他の性犯罪に比べて高く、性犯罪者の実態と再犯防止について研究された「平成27年版 犯罪白書」によれば、その割合は36.7%(約2.7人に1人)となっている。

痴漢行為は依存症”とも言われており、場合によってはクリニックなどでの治療も必要だ。しかし現在のところ、日本において加害者治療への補助制度などはなく、痴漢事件の撲滅には、社会の仕組みから変えていかなければならない課題があると言えるだろう。

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