「思想の自由市場」は“キャンセルカルチャー”に対処できるか? SNS時代における「表現の自由」の考え方

弁護士JP編集部

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「思想の自由市場」は“キャンセルカルチャー”に対処できるか? SNS時代における「表現の自由」の考え方
古くから存在する「思想の自由市場論」が問い直されている(Stop_war_in_Ukraine / PIXTA)

「表現の自由」に関して、近年では「キャンセルカルチャー」が問題となることも多い。

キャンセルカルチャーとは、「社会的に好ましくない発言や行動をした」とされる特定の個人や企業を対象にしてSNSのユーザーなどが集団的な批判や不買運動、ボイコットを行うことで、その対象をメディアから排除させたり職業上・経営上のダメージを与えたりすることを目指す運動。

最近では、缶チューハイ「氷結無糖」の広告に起用された経済学者の成田悠輔氏が過去に発した「高齢者の集団自決」に関する言説が問題視されたことから不買運動が行われ、3月13日にキリンビール株式会社が広告を一部削除したことが「キャンセルカルチャーではないか」と問題視された。

現代における「思想の自由市場」論

キャンセルカルチャーが表現の自由に及ぼす影響としては「思想の自由市場を妨げる」と論じられることが多い。

「思想の自由市場」論とは、「何らかの思想が抑圧されることなく、全ての思想が自由で公平性・透明性のあるかたちで公に発表されて討論が行われることで、真理や知識が明らかになったり“どちらの言い分が正しいか”ということを人々が判断できたりする」という考え方。

「思想の自由市場」論は、1859年に発表されたイギリスの哲学者J・S・ミルの著書『自由論』にまでさかのぼる、古い歴史を持つ。

しかし、インターネットやSNSが発展した現代に、19世紀に展開された議論がそのまま適用できるのだろうか。「表現の自由」を専門にしており、SNSと人権や表現の自由に関する論考も多く発表している武蔵野美術大学の志田陽子教授に話を聞いた。

現代の日本の憲法学では、「思想の自由市場」論はどのように扱われているのでしょうか。

志田教授:憲法学者で表現の自由について論じている人のほとんどは、「思想の自由市場」に基づいた議論を行ってきました。

とくに、「国家権力の干渉を受けないことが自由」であるという「近代的自由」が重視されていた時代には「思想の自由市場は、善である」と漠然と考えられていたようです。自由市場が成立しさえすれば、みんなで議論を行って物事を民主的に解決できる「よい世界」が来ると信じられていたためです。

20世紀型のオーソドックスな表現の自由論では、思想の自由市場論は数学における「公理」のようなものだったと思います。多くの議論で「思想の自由市場を成立させるためには法制度はこうあるべきだ」という議論のしかたがされており、そこでは「思想の自由市場はよいものだ」ということが、論証するまでもない前提として扱われてきたように見えるのです。

ところが、インターネットやSNSによって思想の自由市場が技術的には曲がりなりにも実現したことで、「思想の自由市場はよいものだ」という前提が問い直されるようになってきました。権利侵害や誹謗中傷など、思想の自由市場論が理想としていなかった事態がたくさん起きたためです。

SNSの現状が学説を変えた

志田教授:現在では、SNSによって単に思想の自由市場を実現させるだけでなく、健全な市場を構築し維持するための努力が必要である、という方向に考え方が変わってきました。

現在、「表現の自由」を専門とする憲法学者の多くは、「思想の自由市場」の名に値する言論空間を成立させるためにはどうすればいいか、という論じ方に変わってきています。SNSによって目の当たりにさせられた現実によって、「思想の自由市場」に関する議論のフェーズが変わってきたのです。

SNSやインターネットは、どのような影響を「思想の自由市場」論に与えたのでしょうか。

志田教授:かつては、一般の人が自分の言論を発信するのは難しいことでした。新聞やテレビなどのメディアに載る、メディアに認知されるというステップを踏まなくてはならなかったからです。しかし、インターネットは、だれもが自分の言論を発信することを可能にしました。インターネットにより、言論の公平性や透明性、言論の自由が技術的に確保できるようになったのです。

しかし、一見すると自由な言論空間でも、誹謗中傷や攻撃を受けると、人はダメージを被ります。生きた人間は、同調圧力に弱かったり萎縮しやすかったりするものです。そのため、「SNSで発信するのは控えよう、それが賢明なことだ」と考える人も増えていきます。

このような状況では、「その言論が賛同者を獲得できるかどうかは事前には分からないが、どのような言論でも発信することは自由である」といった、昔ながらの思想の自由市場論のルールは一部、見直されるべきだと思います。

ここで、いわゆる「キャンセルカルチャー」の問題も関わってきます。不適切な言論をSNSで発信した人が、他の人たちから「その言論を取り消せ」と要求される、あるいは職業を辞任するよう要求される。また、そうした要求が職場に送られてくる、という事態ですね。

不適切な言論に対する批判が正当な場合もありますが、批判が先鋭化して「いやがらせ」や誹謗中傷のレベルに達することで、「SNSで発言するのはこわいことだ」と思う人も増えてしまいました。結局、みんなが自由に言論を発信できる状況にはなっていないのです。

人間には、自分と異なる考えや自分たちと異質な相手を排除しようとする傾向もあれば、攻撃を受けたら萎縮する傾向もあります。そういった、生きた人間が持つ「弱さ」をどうやって法律論に織り込んでいくのか、わたしたち憲法研究者もまだ模索しているところです。私はひとつの道筋として、「人格権」と呼ばれる分野に注目しています。

「表現の自由」を専門にする憲法学者の志田陽子教授

「わいせつ表現」は保護されない?

ひとくちに「表現」といってもさまざまな種類がありますが、とくに保護されるべき表現があったり、または逆に保護の必要性が薄い表現があったりするものでしょうか。たとえば、重要な政治的問題に関する意見は、マンガやイラストなどの創作物よりも価値が高そうに思えます。

志田教授:基本的には、意見か創作物かということを問わず、すべての種類の表現は同様に保護の対象となります。が、民主主義のために表現の自由が大切、という考え方からは、政治性・公共性のある表現はとくに手厚く保護する必要があると考えられています。

たとえば、通常なら表現が名誉毀損になる場合でも、「公共の利害に関する事実」を適示した場合には名誉毀損罪が成立しません。そういった意味では、「公共性のある事実情報」は創作物よりも強く保護されている、といえます。

ところで、アメリカの判例理論では、19世紀の時代から「わいせつ表現」と「名誉毀損」は表現の自由の理論によっては保護されない言論である、と考えられてきました。そして、日本の学者や裁判官にはアメリカの理論を学んでいる人が多いので、日本でもこの考え方がとられることが多いです。

もっとも、私としては、日本がアメリカの判例理論をそのまま受け継ぐ必要はないので、「一切の表現の自由」を保障した日本国憲法に照らした日本独自の理論を模索すべきだ、と思っています。

わいせつ表現といえば、戦後にイギリスの純文学『チャタレイ夫人の恋人』の邦訳が「わいせつ物頒布罪」に問われて発禁処分となる事件がありました。

志田教授:「『チャタレイ夫人の恋人』は検閲処分になった」と言われることもあります。しかし、日本の憲法では、表現物が社会に出る前に公権力が介入することを「検閲」と定義しているため、出版後に行われる発禁処分は「検閲」にはなりません。

ただし、アメリカにおける検閲(Censorship)には発禁処分も含まれています。表現者の側の実感としては「発禁処分も検閲も同じではないか」と考える人も多いでしょう。

また、日本では「犯罪」とされることは強い抑止効果を持つので、有罪判決を受けて発禁処分にされた図書表現物は、事実上、社会に出てこられなくなり、検閲とほぼ同じことになります。

『チャタレイ夫人の恋人』については、1996年に、有罪判決を受けて削られた性描写を含み直した「完訳版」が出版されました。この時、警察はこれの摘発には動きませんでした。何を「わいせつ表現」とするか、という社会的通念が変わった、ということなのでしょう。

裁判でも社会的通念は重視されます。そして、裁判官が「社会的通念」に関する解釈を時代に合わせて変えていくことで、以前は「わいせつ」とされて認められなかった表現が芸術として認められるようにもなってきました。表現の自由の権利も、裁判によって発展させられてきた側面があるわけです。

表現の“芸術性”は考慮されるのか?

『チャタレイ夫人の恋人』は純文学という「芸術」です。一方で、商業的な理由から大量に生産されているイラストなどは「芸術」とは言い難い気がします。法律や裁判において、「芸術性」は考慮されるものなのでしょうか。

志田教授:法律上は、文学作品であるか商業的なイラストであるかということは考慮しません。「わいせつ」の基準にあたるかどうか、というところだけを見て判断します。

しかし、実際の裁判では、芸術性も考慮される場合があります。

具体的には、「四畳半襖の下張り」という性的描写のある文学作品を雑誌に掲載したことによりわいせつ文書販売の罪が問われた刑事事件では、判決は有罪になりましたが、「作品全体に社会的価値や芸術性がある場合には、わいせつであるという判断のほうを控える余地がある」ということが示されました。

そして、2008年には最高裁で、ロバート・メイプルソープという写真家の写真集が税関で「わいせつ物」と認定された事件について、作品の芸術性を考慮してわいせつの認定が取り消されたのです。

つまり、芸術性が認められた作品はわいせつ物と認定されず、表現の自由が守られる場合があります。

とはいえ、裁判所がどうやって「芸術性」を判断できるか、ということには疑問の余地があります。裁判官も法学者も法律の専門家であって、芸術の専門家ではありませんから。メイプルソープ事件で行われたように、芸術の専門家による判断を裁判官が参照する、という対応を取る必要があるでしょう。

「批判」は“表現の自由”を妨げるのか

性的な表現を批判するフェミニストや左派が「表現の自由を侵害している」と非難される、ということがあります。しかし、そもそも「批判」や「抗議」も表現の一種、と考えることもできます。たとえば性的な広告に対する抗議の声を抑圧することもまた、表現の自由の侵害と言えるのでしょうか。

志田教授:性的な表現を行いたい人にとっては、フェミニストの抗議はまさに「自由の侵害」と感じられるわけです。しかし、抗議もまた表現であるので、「抗議の声を上げるな」という要求も表現の自由の侵害になります。

「表現」と「批判」の関係をどう考えるか、というのは難しいです。思想の自由市場論であれば、自由市場という「土俵」の上で表現者や批判者を戦わせて勝ち負けを決める、という考え方もあるでしょう。しかし、私は、勝ち負けを決めるのではなく「弁証法」(※)の発想で考えることが大切だと考えます。

弁証法……ある考え方と、それに対立する別の考え方を統合させて、より良い考え方を生み出すことを目指す思考方法。

表現者の側は抗議している人の考えを聞いて、人を害する意図が無かったのであれば、その作品の本来の意図を説明する。抗議する側が納得することもあれば、表現者の側が抗議を受け入れて「ここを修正してよりよい表現にしていこう」と考える場合もあるでしょう。そうやって切磋琢磨(せっさたくま)する道を開き続けることが、表現の自由市場の役割だと考えます。

ここで重要になるのは、表現者の側も抗議者の側も自分の意見を表明し続けられること、より多くの意見や表現によって納得や発展を目指す「モア・スピーチ」の考えです。これは、不適切な表現の「退場」や「排除」を目指すことや、批判を「空気を壊すな」と言って制することとは逆の方向です。

前回にお話ししたアイヌ肖像権裁判の事例のように、納得した結果、表現者が自発的に表現を取り下げることはあるでしょう。しかし、批判者が相手の表現を退場させようとして、その要求を絶対に通そうとしてしまうと、批判者は「権力」を持ち過ぎることになってしまいます。

批判者が、自分たちの望むキャンセルを実現しようとして実力行使や脅迫などを行うことは行き過ぎです。こうなると、業務妨害罪やカスハラ防止条例に問われることになります。つまり、批判の行き過ぎを防ぐための「線引き」が、法制度には組み込まれているのです。

個々の批判は穏当なものであっても、ネット上で多くの人が一斉に批判することで表現者が萎縮する、つまり個人ではなく「集団」で行われる批判に権力が発生することが、キャンセルカルチャーの問題であるといわれます。

志田教授:社会的事実として、集団での批判に権力としての「作用」が生まれてくる、ということはあります。しかし、そういった権力を、法律によって規制することは難しいです。

たとえば、企業が自社の従業員に対して持つ「権力」は強大かつ明確なので、法律によって規制される対象になります。一方で、「世論」が事実上の権力と言えるほどの影響力を発揮する瞬間があったとして、法律的には、社会の成り行きに委ねるのが原則だと思います。それが人権侵害を生んでいるときには、人権保障の発想で抑えるべきことになりますが、人の権利を侵害せずに社会を改革する方向であるならば、民主主義の社会には当然ありうる局面なので、法で抑える理由はないことになります。

その前提として、「多数派の世論に逆らう言論は無効だ、禁じる」なんて法律は、もちろん存在してはいけません。たとえば「内閣の見解と異なる歴史見解は『ねつ造』とみなし、その研究や芸術を公的助成の対象としない」などというルールが採用されることは、表現の自由からも学問の自由からも、あってはならないことです。事実上そのような機能をもつ法律を多数派が作ってしまった場合には、憲法違反となり、無効とされるべきでしょう。

どれだけ少数派であっても、個人が自分の思うところを表現する権利は保障されています。一方で、多数派の意見が強い影響力を持つ「世論」になっていくことも、言論の自由市場の中で起こりうることとして、法律は認めているのです。


志田陽子
武蔵野美術大学教授。博士(法学)。憲法理論研究会運営委員長(2022-2024)、全国憲法研究会運営委員、日本科学者会議共同代表、日本女性法律家協会・憲法問題研究会座長。芸術・文化政策に関連する憲法問題の理論研究を続けながら、表現の自由と多文化社会の課題に取り組んでいる。著書に『表現者のための憲法入門 第2版』(武蔵野美術大学出版局、2024年)、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)など。

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