
日本の登録商標「第1号」は京都の売薬商人だった? “ニセモノ”横行の時代を変えた「画期的制度」誕生秘話

事業者が、自社のロゴマークなどのブランドを保護するうえで不可欠な商標登録制度は、明治17年(1884年)6月に制定された「商標条例」の施行をもって始まった。現行の商標法は、昭和34年(1959年)4月13日に公布され、翌年4月1日に施行、その後も幾度となく一部改正が繰り返されて、現在の形になっている。
商標制度誕生以前から、今でいうロゴマークは日本の市場において多くの事業者に活用されていた。しかし、これらロゴマークの独占使用を法的に担保する仕組みがなかったため、偽造品の問題が頻繁に発生。特に江戸時代には、薬や醬油、清酒といった、ブランドが重視される商品で粗悪な偽造品が出回り、消費者の健康被害や製造者の信用失墜を招いていた。
そうした混乱を経て、いかに日本に商標登録制度が確立されたのか。まずはその始まりからひも解く。
※ この記事は、作家・友利昴氏の著作『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』(作品社、2024年)より一部抜粋・構成しています。
商標登録制度の始まり
商標登録制度ができる前から、自己の商品であることを表す目印としてのロゴマークは、自然発生的に存在していた。奈良・鎌倉時代から、刀剣や鋳物には製造者の刻印が付されていたことが分かっている。
江戸時代には、大都市圏を中心に同一産業内での競争が激化したため、他の業者との識別のためのロゴマークの使用は必然だった。一方、こうしたロゴの独占的使用を担保する仕組みがほとんどなかったことから、しばしば偽造品の問題が生じていた。
明治17年(1884年)に制定された商標登録制度にまず飛びついたのは、江戸時代からの国内主要産業であり、偽造被害に悩まされていた医薬品、醬油、清酒などの事業者。中でも売薬業者はこの制度を歓迎したと見られ、明治時代を通して最も多く登録されたのが、薬に関する商標だった。
日本の登録商標第1号は?
栄えある日本の登録商標第1号は、京都で「鍵屋」の屋号を用いた売薬商人・平井祐喜のもの。ケガの治療などに用いる膏薬「養命膏」のためのマークだ。
魚を捌いていた丁稚が、誤って自分の左手の指を包丁で切り落としてしまい、困り顔をしているという描写の絵である(冒頭【図1】参照)。右手に持っている包丁をよく見ると、「平井」と書いてあるのが分かる。平井の膏薬を塗れば、こんな大ケガのときでも安心……というわけだ。
明治初期のロゴマークは家紋調のものが多く、こうした写実風で説明的、かつ大げさな内容のものは当時としてもいささか異彩を放っている。なお、平井は同時期にはこの図柄の変種ともいうべきマークも使用している(【図2】参照)。こちらは指を切った拍子に包丁と魚を放り出しており、躍動的な趣きがある。

なお、養命膏は、はまぐりの貝殻に入れた硬質性の膏薬で、これを炙って柔らかくして布に延ばし、患部に貼るという商品。その評判は高かったようで、明治9年(1876年)の『京都売薬盛大鑑』では「前頭」の称号を得ている。
平井家はもともと寛文4年(1664年)から京都・三条で呉服商を営んでおり、6代目で薬屋を始めた。養命膏の他にも小児用鎮静剤の「養命丸」などを取り扱っていた。
京都・三条の町には、今でも当時の面影を残した場所が数多いが、平井の店があった地は、現在ではマンションになっている。
かつて、ニセモノはどう取り締まられていたのか
商標登録制度ができる前、他人のロゴマークの模倣行為は違法ではなく、偽造薬や偽造酒の問題が頻発していた。
ただし、正確にいえば商標法違反ではなかったということであり、明治時代初期には詐欺罪や販売免許の不取得などを理由として取り締まりがなされることもあった。
さらにいえば、法令上の根拠はないのに、お上から「厳重注意」や「訓戒」を受けたり、さらには偽造品の没収や罰金、懲役が科されることもあったという。
なんとも大らかというか……。頼もしいというより、ある意味恐ろしい気すらするのであった。商標登録制度以前に、法秩序そのものが未整備な時代の話である。
江戸時代においては、基本的にお上に頼ることは難しく、その代わりに偽造品の抑止力となっていたのが、「株仲間」の制度であった。株仲間は現代でいう同業者組合のようなもので、同業者同士の集まりで結成した株仲間が、幕府に上納金を納めることで、営業の独占について公認を受けることができるという制度である。
株仲間は、仲間内で「仲間規約」をつくってお互いを監視し、偽造品や盗品を扱えば株仲間から除名するなどの罰則を設けることで業界秩序を保っていた。業界内の自治による取り締まりが成立していたのである。
もっともこれはあくまで仲間内の内規であり、株仲間に属さずに勝手に商売をする者の行為を規制するには限界もあった。
株仲間制度には、価格操作や新規参入者妨害の問題もあり、産業の自由化を志向する明治政府により明治5年(1872年)に廃止される。
しかし、仲間内の規律すらなくなれば偽造行為が増えるのは当然のことで、さらには、もともと日本の業界ルールの埒外(らちがい)にいる外国製品の偽造行為は止められるべくもなかった。当時、日本で外国製品を販売していた輸入商社などが、外交官を通して明治政府に苦情を申し立てた例も少なくなかったという。
自由とともにもたらされた商秩序の混乱を受けて、商標登録制度導入の機運は徐々に高まっていったのである。
■友利昴
作家。企業で知財実務に携わる傍ら、著述・講演活動を行う。ソニーグループ、メルカリなどの多くの企業・業界団体等において知財人材の取材や講演・講師を手掛けており、企業の知財活動に詳しい。『江戸・明治のロゴ図鑑』『企業と商標のウマい付き合い方談義』『エセ著作権事件簿』の他、多くの著書がある。1級知的財産管理技能士。
- この記事は、書籍発刊時点の情報や法律に基づいて執筆しております。

江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク
下り坂の今、もう一度知ってみよう。 ニッポンの経済を引っ張ってきた元気なロゴのご先祖様たち! ロゴの由来や知られざるエピソードにも丹念な調査で迫る。 ありそうでなかった本邦初の図鑑! 我が国・日本のロゴマークの歴史と発展。 商標登録制度誕生140周年記念! 明治17年(1884年)に我が国に商標登録制度が誕生してから140年、その最初期の登録商標を紐解くと、我が国の伝統産業である売薬や醤油、清酒などに使われた、家紋調、暖簾印、浮世絵風の、江戸情緒を感じさせる図案があふれている。やがて、それらは近代欧米風の明るさと融合し、一種独特の雰囲気に変貌していく。なかには今日おなじみの企業や商品のロゴマークの原形となるもの、現代に至るまでほとんど図柄を変えずに承継されているものも見られる。5万件以上にのぼる江戸・明治時代の商標から、デザイン性に優れたもの、歴史的な逸話のあるもの、当時の産業を象徴するものを厳選。各商標の誕生秘話や産業動向、歴史なと、関連するエピソードも添える。
関連記事
企業の新着記事
企業の新着記事一覧へ
日テレ「史上最悪の会見」評価も“スポンサー離れ”起きなかった理由…フジとの明暗を分けた“決定的な違い”とは

一般名称の「TANSAN」を使用禁止に? 「ウィルキンソン」創業者が執着した“商標独占”のてん末

ユニクロ「万引き犯に全損害の賠償を求める」 異例の“民事手続”宣言なぜ? “コスト度外視”でも「訴訟提起」...

「三ツ矢サイダー」をマネた「三ツ“穂”サイダー」が登場…本家の悩みは尽きない!? 明治時代の巧妙な「ニセ商...

なぜ日本酒には「○○正宗」が多いのか? “元祖”は「櫻正宗」だが…他社でも使われるようになった背景に「商標...
